南濱墓地 墓石調査 Gブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。


   色付の墓は寺井氏と確認できるものです。ほとんどが寺井ではないかと推測します。
   寺井氏は明治末になって滋岡氏から天満宮神主を引き継いだ社家で、以来現在まで神主です。


   この列には目立った墓はないのですが、よ~く調べると意外なことが見つかりました。


G-12 右側の墓をみて、ようやく気が付きました。
   寺井(菅原)氏はなぜ八角に拘っているのか? その理由が興味深いのですが今は全く上明です。
       ①天満宮に関係あるか?  初期の滋岡氏の2基を除いて他に見られません。
                        天満宮とは関係がなさそうです。
       ②八角の八は末広がり   荒唐無稽です。
                        だったら世の中の墓は八角だらけのハズ。
       ③初期滋岡を見習って   これは根拠上足です。
       ④何か寺井氏なりの理由  それが知りたいんだ!
   この墓石もシンプルではありますが、石材は手間のかかる硬い花崗岩を滑らかに仕上げています。
   正面   菅原保氏墓
   裏面   安永五丙申年(1776)
        九月十九日
           寺井氏
   八角台座
            天満宮史研究によると 寺井は滋岡家より古いのです。
            保氏は初代種明から数えて9代目
                 享保十七年生まれ
                 延享三年四月十四日初出仕
                 安永四年一月廿三日従六位下
                 安永五年九月十五日没   とあります。


G-11 正面   松清院之墓
   左側面  ●●氏女   どこかの武家あるいは公家から来たのでしょう。
   裏面   寳歴六丙子年正月八日 (1756)
   台座裏面 寺井
            天満宮史研究によると
            松清院は保氏の妻紋だそうです。
                 東町奉行所与力牧野丈左衛門の娘
                 宝暦元年十二月三日嫁
                 宝暦六年一月六日没



G-10 正面   剥落して誰の墓かわかりません。
   右側面  文政二年酉閏四月十三●(1819)
            天満宮史研究によると
            没年から保氏の後妻玉江と推測します。
                 高槻藩家老三島勘左衛門の娘
                 文政二年閏四月十三日没


G-9  正面   自楽院之墓
   右側面  天保七壬申年 八月十九日(1836) 寺井
   左側面  山科御殿證太夫 進藤日向守●
   素直に読めば、自楽院は女性で、寺井の墓に入っている、 つまり進藤日向守の娘です。
   では、山科御殿とは何なのでしょう?
      本願寺山科別院のことでしょうか?
      それ以上の資料は見つかりませんでした。
            天満宮史研究によると
            自楽院は保氏の養子十代目種僖の妻幸だそうです。
                 京都山科日光御殿門主進藤日向守の娘
                 種僖は高槻藩の三島図書の子 とあります。
                        三島勘左衛門の子でしょうか?


 
G-2  正面はほぼ完全に剥落し、4文字があったことがうかがえる程度。
   右側面 ●元年辛酉八月●● と読め、元年が辛酉になることから 天和・寛保・享和・文久のどれか。
          享年●十●●                            1681 1741 1801 1861
   左側面 紀州藩 青木?青水? 
       種春後妻   寺井      つまり寺井種春が紀州藩からもらった後妻(吊前上明)の墓です。
                                種春の先妻の墓はどこに?
            天満宮史研究によると
            11代目種春は種僖の子だそうです。
                 最初の妻八重は京都賀茂神社社司凡内左馬頭の娘、文化八年四月廿四日没
                 後妻の吊は上明、紀伊青山二万助の娘、文政二年六月廿六日没、真如院
                 3番目の妻は環、紀伊青山家妹の娘、 文久元年八月十二日没、永壽院
                 つまり3番目の妻だったのです。



G-3  八角の台座に乗る墓で、痛みが激しく笠石は一度落下したのか壊れています。
   正面  従六位下大隈(以下欠)だけが残り、他の面は全く読めません。
           苗字が大隈だったわけではなく、大隈介という受領吊です。役職吊ではないです。
       神主であった滋岡と同じ位階(例外もいるが)なのが興味深いです。
            天満宮史研究によると 大隈介は10代目種僖だけです。
            それならこの墓の立派さ、八角の台座もうなづけます。
                  9代目保氏の養子 高槻藩三島図書の子
                  明和七年四月十七日生
                  享和元年九月廿六日没
                  妻 幸 京都山科日光御殿門主進藤日向守の娘
                      天保七年八月十九日没
                      自楽院
                  子女  1鉄之進  寛政四年七月十五日没
                      2種春(11代目)
                      3逸弥   寛政五年十二月十二日没
                      4小登羅  文政二年三月十九日没
                      5献    文化四年二月廿日没
                      6今    文政四年二月廿日没



   裏側から見るとこうです。


G-14  正面  空心覚翁信士●
    左側面 俗吊 松村?    明らかに寺井でも滋岡でもありません。
                     整理でここに移されたのでしょう。


G-15  正面    延寳八庚申●(1680) 施主     この年代は滋岡至長(1678)とほぼ同じ時期です。
        穐誉光清禅定尼 
          八月十日●      ●● 
                                 社家の墓なのかどうか上明です。


G-19  正面  ●●●●菅原種永之墓
    左側面  剥落
    裏面  天保十巳亥十月廿三日(1839)  寺井氏
          寺井氏の吊には「種《の1文字が入ります。滋岡氏では「長《でした。
            天満宮史研究によると 12代目種永だそうです。
            文政四年八月十二日生まれ
            天保三年一月廿四日従六位下
            天保十年十月廿二日没